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日本とポーランド“友好の礎” 敦賀出身の外交官・野口芳雄 孤児から“兄貴”と慕われ日本との交流に尽力【福井】
敦賀にゆかりのある外交官といえば、「命のビザ」で数千人のユダヤ人の命を救った杉原千畝を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、彼と同年代の外交官に野口芳雄という人物がいます。野口は約120年前の2月24日に敦賀市で生まれた外交官で、ポーランドとの友好関係の礎を築いた人物です。名もなき郷土の偉人が残した偉大な功績をたどりました。
福井県出身の外交官、野口芳雄。謎に包まれた彼の経歴を取材するため、東京にある外交史料館を訪ねました。この史料館で外交史の編さんを行う東京女子大学名誉教授の黒沢文貴さんは「私が野口さんの名前を知ったのはいわゆる『ポーランド孤児』という事業の関係です」と話してくれました。
ポーランド孤児とは、約100年前、極寒のシベリアで親と離れ離れになり命の危機に瀕していたポーランド人の子供たちのことです。1920年から3年間かけて763人の孤児たちが日本赤十字社の支援によりシベリアから救出され、船で敦賀港に上陸。その後、東京や大阪で静養し全員が無事に祖国へと送り届けられました。
黒沢名誉教授は1枚の写真を手に「野口さんは1904年に福井県敦賀市の生まれで、敦賀商業学校のロシア語科を卒業されたということで、おそらく野口さんはポーランド孤児が敦賀に上陸したときに、非常に温かい気持ちでお迎えしたと思います」と当時の情景を話してくれました。
野口が初めてポーランド孤児に会ったのは、1920年の敦賀港。その後、高校を卒業し外務省に入ると、ロシア語のスペシャリストとして各地を飛び回り、出会いから約15年がたった1936年にポーランドに赴任し、孤児達と再会を果たすことになりました。
ポーランドで孤児の研究をしてきた松本照男さんは、日本に救出されたポーランド孤児と野口の関係について教えてくれました。
ポーランドで孤児の研究をする松本照男さん:
「日本という国に助けられて祖国に無事帰還できた。でも親がいないんだからお互いに助け合わないと大変だということで、相互に助け合う組織『極東青年会』を作ったのです。それと同時に、日本との親睦活動もしていたのが極東青年会です」
ポーランド孤児が帰国後に組織した、極東青年会。松本さんは、この団体と日本大使館とのパイプ役になったのが野口だったといいます。
当時、発行された書籍にも「この青年たちはアドバイザーとして日本大使館の野口君を本当の兄貴のように慕っているのを見た」と書かれていて深い関係だったことが分かります。
松本さんは「日本とポーランドという国はいろいろな意味で交流がなかった。そういう面では、日本と友好関係を結んだのは極東青年会、ポーランド孤児の人たちが初めてではないか。いわば日本とポーランドの交流の端緒で、その仲立ちとして日本側を代表したのが野口さんなので、大変貴重な存在」と話します。
外交官として日本とポーランドの架け橋となった野口。その活動内容がわかる資料が
ポーランドに残されていました。
極東青年会がポーランドで発行していた「極東の反響」という雑誌には、野口さんのことが記載されています。日本の写真や文字が解説されていて、ポーランドの人に日本の魅力を伝える役割を果たしていました。野口はその雑誌にコラムを寄稿したり、野口基金という名前で恵まれない子供を中心に寄付をしたりしていました。
その献身的な活動は極東青年会のメンバーの心に強く残り、後に異例ともいえる外交文書が日本に送られることになりました。
東京女子大学・黒沢文貴名誉教授:
「これは野口書記生に対するポーランド極東青年会陳情書送付の件、ということで、簡単に言えば『野口さんが極東青年会の活動に非常に尽力された』と感謝の念が述べられているとともに、帰国した後も、もう一度ポーランドに戻ってきてほしいという内容の陳情書です。赴任国の方々からこういった陳情書がでるのは本当にないものですから、野口さんの誠実な外交活動、特に極東青年会の人たちとは個人的なレベルで信頼関係を築いたのではないかと思います」
いまでは毎年、首都ワルシャワで「日本祭」と呼ばれるイベントが開催されるなど、ヨーロッパ有数の親日国となったポーランド。
そこには敦賀出身の名もなき外交官の姿がありました。
野口はポーランドとの友好関係だけでなく、1956年には日ソ国交正常化交渉全権委員随員として、日ソ共同宣言の署名にも尽力しました。これによって日本はソ連との国交を回復したのです。
そして2月24日は野口の誕生日であると同時に、ロシアがウクライナに侵攻して3年が経った日でもあります。多くの人の命を奪うだけでなく、先人たちが築いた歴史を踏みにじるこの戦争が、一刻も早く終結することが望まれます。
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