迷える境界線 福井の絵馬なんだー? 絵馬の「表」は絵の面——願い事を書く習慣は、いつから?? | なんだー?ワンダー! | 福井テレビ

番組情報

なんだー?ワンダー!
土曜夕方6時29分

2026年4月25日(土)放送

迷える境界線 福井の絵馬なんだー? 絵馬の「表」は絵の面——願い事を書く習慣は、いつから??

神社でおなじみの絵馬。「絵」と「願い事」、あなたはどちらを表だと思うジョイ?

 

 

今回は、この素朴な疑問に迫る!取材で浮かび上がってきたのは、江戸時代の福井を舞台にした、ある絵馬師の知られざる物語だったジョイ!

「絵が表」は常識——でも、なぜ?

街の人に「奉納するとき、絵と願い事、どちらを見えるようにしますか?」と聞くと、答えはバラバラ・・・。
「絵のほうが表じゃないですか。メインの絵が描いてあるから」という人がいれば、「神様のほうに向けてあげるなら、願い事の面が表かな」と答える人も。

 

 

そこで番組が訪ねたのは、こども歴史文化館の学芸員・奥田陽子さん。江戸時代の絵馬を中心に、作品テーマや由来などを深く研究している専門家です。奥田さんの答えは明快でした。「絵の描かれている面が表です」そして、こう続けました。「そもそも絵馬は、願い事を書くためのものではなかったんです」

 

 

 

「絵馬」という名前には、深い由来があります。
諸説あるものの、古代には神に生きた馬を奉納する信仰があったといいます。やがてその代わりに、馬を描いた板を捧げるようになった——それがルーツという説があります。
絵馬の発祥地の一つとされる京都・貴船神社には、「雨乞いには黒馬、晴れ乞いには白馬や赤馬を奉納していた」との言い伝えが残っています。生きた馬が「絵に描かれた馬」へと替わっていく過程で、今日の絵馬文化の萌芽が生まれたと考えられています。

「ただし、今の絵馬文化にそのままつながるかどうかは、正直わからないところです。謎ですね」と奥田さんは笑います。

 

 

 

現代の私たちが神社で手にする絵馬は、手のひらサイズの小型のもの。しかし奥田さんが案内してくれた展示には、1メートルを超える大判の絵馬が壁一面に並んでいました。「現代のものは小絵馬ともいいますが、それとはまったく違います。神仏に奉納される板の絵のことを絵馬といいました」
壁に掛けられた色鮮やかな大判絵馬の数々。それはまるで神社の中のギャラリーです。
そして、この絵馬文化を江戸時代の福井に爆発的に広めた人物がいたといいます。

 

 

福井の絵馬ブームを仕掛けた男——夢楽洞万司

「江戸時代の福井城下、今の田原町付近に『夢楽洞』というお店があり、『夢楽洞万司』という人が店の主人でした。万司は福井に広く絵馬ブームを巻き起こした人物です」
しかし——その実像はほとんど謎に包まれています。「顔も含めて、ほとんどわかっていないんです」
わかっていることは、福井城下で絵馬や天神絵を販売していたこと、そして万司の工房が手がけた絵馬が県内各地に大量に残っていること、それだけです。

 

 

 

約30年前に行われた県内全域の調査では、戦前までの絵馬が4千数百枚確認されています。奉納年代が判明する絵馬のグラフを見ると、万司の工房が登場した江戸後期から急増している様子が一目でわかります。

 

 

 

 

万司の絵馬が人々を惹きつけた理由は、その圧倒的な画力にあります。
初代万司が手がけた「羅生門図」には、「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあしみみずがき)」という技法が使われています。ひょうたんのようにくびれ、ミミズのようにうねる太い線で筋肉の動きを強調する——江戸時代の浮世絵で用いられた当時最先端の描法です。

 

 

 

さらに、龍宮の玉取り伝説を題材にした「大織冠図」では、遊び心まで光ります。頭にイカをのせた人物は「イカっている(怒っている)」、頭に鯛をのせた人物は「タイしょう(大将)」——ダジャレを絵に忍ばせた、万司一流のユーモアです。
「文字を書き込むスペースがないくらいです。いろんなアイデアや情報を反映させているという意味では、江戸の蔦屋重三郎と言ってもいいかな」と奥田さんは評します。

 

 

絵馬はもともと「感謝」を伝えるものだった

では、なぜこれほど絵馬が奉納されるようになったのか。その背景には、江戸後期の「旅ブーム」がありました。
「旅から無事に帰還したお礼、感謝の気持ちを込めて絵馬を奉納していたという文化が越前にはありました。絵馬は実は、感謝の気持ちを示すためのものだったんです」
神社は村社会の中心的な存在。そこに飾られた色鮮やかな絵馬は、奉納者の感謝を示すと同時に、村人たちが眺めて楽しむ”商品”でもあったのです。

 

明治の絵馬の裏側——そこには何もなかった

「本当に絵馬の裏に願い事が書かれていないのか」——番組は福井市糸崎町の天満神社を訪ね、今も数多く残る当時の絵馬を前に、その「裏面」を確かめました。
明治26年に奉納された万司の絵馬の裏を、神社の許可を得て確認すると——何も書かれていませんでした。
「個人の願い事などは書かれていないですね。絵馬は願い事を書くものではなく、記念や感謝の気持ちを込めるものだったということがわかっていただけるかなと思います」

 

 

では、いつから「願い事を書くもの」になったのか。
「推測ですが、戦後からだと思われます。1960年代以降の本を確認すると、その頃から絵馬は裏に願い事を書くものと説明されるようになっていきます。当時激しさを増していた受験戦争の影響があったのかもしれません」

 

万司の血筋は今も福井に

 

夢楽洞万司の末裔は、福井市内で100年続く薬店を営む大岡宏道さん。
祖父がかつて「夢楽洞」の名をもじり、「ムラクトーゼ」という栄養ドリンクのようなものを作って販売していたというエピソードも残っています。
大岡さんの家には今も、万司が手がけた「万司天神」と呼ばれる一枚の天神画が大切に飾られています。本家で所蔵されたその絵は、大胆な筆づかいが今もなお力強い。
「ちょっと大げさに言えば、スーパースターみたいな人だったんだなと思いますけど、とてもとても、私には真似できない」と大岡さんは笑います。

 

絵馬の表は、絵のある面。その答えをたどれば、江戸時代の福井の城下町を彩った一人の絵馬師の物語が見えてきました。
感謝を形にした奉納文化と、それを商機として最先端の表現で広めた万司——願い事を書くよりもずっと前から、絵馬は人々の”気持ち”を運ぶものだったジョイ!