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焼夷弾が落ちた瞬間「パッと体全体が液体に…」 当時16歳の女性が目にした忘れられない惨状 福井空襲から81年目の証言
81年前、1945年7月19日は1500人以上が犠牲となった福井空襲があった日です。福井の街を一夜で焼き尽くした焼夷弾の恐怖。当時16歳だった女性が、忘れられない悲惨な光景を語りました。

福井市呉服町商店街にあるクリーニングの取次店。この場所に生まれ育った店主の内山和子さん(97)は、70歳から取次店を始め、いまも現役で働いています。
81年前福井の市街地を襲った空襲の記憶は、和子さんの中に鮮明に残っています。
太平洋戦争のさなか、女学校へ通っていた和子さん。勉学の日々が一変し、軍需工場へと駆り出されました。
いわゆる学徒動員です。
「花堂に酒井通信という工場があって、そこで飛行機の通信の部品を作っていた。勉強はふっとんでそんなところじゃなかったね、ああいう時代は」
山を越え往復6時間歩いて工場に通う過酷な日々が続きました。

そんな中、迎えた1945年(昭和20年)7月19日深夜、空襲警報が激しく響き渡りました。
「『空襲だ』と町内の方が呼びに来た時は、出たらもう松本には火の手が上がっていて…こんなことがあるのかなと思って、いままでそんなひどい火見たことなかった。逃げなあかん、とバケツと柄杓を持って飛んで出た」
防空頭巾をかぶり着の身着のまま逃げ出した和子さん。
家族もバラバラになり一人で逃げていた時、いまも忘れることのできない恐ろしい光景を目の当たりにしたのです。
「私、防空壕に滑り込んだんです。そうしたら(入口で)私の前にいた人が焼夷弾の直撃を受けて。パッと瞬間ですよ、焼夷弾が落ちてきて当たった瞬間にパッと消えた。体全体が赤い液体になってもてるんですわ、骨も何にも形ない液体」

福井空襲で投下されたのは、M69焼夷弾。一つの爆弾が上空で炸裂すると、36発ほどの焼夷弾が飛び出し、着弾した瞬間に油が燃える仕組みです。
アメリカの爆撃機B-29 127機が投下した焼夷弾は約1万発。福井の街も人々も燃え尽くし、市街地の85%が焼失、犠牲者は1500人以上を出しました。
降り注ぐ焼夷弾をかいくぐり、親戚のいる明里方面へと逃げた和子さん。翌日には、奇跡的に家族全員の無事が確認できました。
一面、焼け野原となった福井の街。辺りが熱気でむせ返る中、目にしたのは大量の死体でした。
「トラックが来て、死者をまるで物のように鍬で、パッパッと荷台に積んで、ああいう光景はもう二度と見たくもない。私もあれだけ死者を積むのを見たのは生まれて初めてその光景で…圧倒された」
戦争が終わり、父親は長年経営していた洋傘店を苦労の末、再開。和子さんは跡を継ぎ、家族にも恵まれました。
穏やかに過ごす日々ですが、昨今の世界情勢に大きな不安を感じています。
「ひどい世の中やなと。戦争は二度とごめん。だんだん若い人はね・・・戦争はだめだという気持ちを伝えたい」
16歳で経験した福井空襲。いまの若者に同じ思いはさせたくない。和子さんは強く願っています。
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